プロフィール


アダルトチルドレンだった私

私は自分の意志で決定権を持ったり、自分の意見を信じることができない人でした。
父親はアルコールを飲み、酔っぱらった勢いで家族と会話することが多い人で、少しでも反抗的な態度を取ると怒鳴り散らしていました。母親は、旦那様には服従して耐えなければならないとの思いで、生きていました。
私は、二人のやり取りを見ていて生きていたのでした。
自分に避けられないような悪いことが起きたら、諦め、ことが過ぎるまでじっと耐え忍ぶ。
自分が下になって、「ハイハイ」言って聞き流せば、問題は誰かが解決してくれる。
年月を経つごとに、私には時間を待って諦めるだけの生き方が身に付き、人から強く言われたことは服従か・降参すれば生き延びられると思うようになりました。

学生時代

小学生時代、朝、「歯医者へ連れて行くから学校で待っててくれ」と父親から言われていました。私は本当に待ってていいのか自信がなくなり、家に帰って何が起きても知らないふりをするため、こたつの中で寝ていました。父が来たので良かったですが、問題を待って耐える生き方の第一歩を踏み込んでました。
我慢中心主義は、知らないうちに心へ披露を蓄積させていました。イライラを自分に向けたり、家の柱を叩いていたり、うっぷん晴らしでゲームに走ってみたり。
そして、家族を崩壊させることを人生の目標に掲げていました。
「私の代でこの家を終わらせてやる!」
家族全員に伝えていました。
人に強く突っ込まれると反論できない性格は、いつもどっちつかずの自分を生み出しました。会話中、「とがしの言ってることわけわかんないんだけど!」と言われることがよくあり、私自身も何を言っているのか収集つかないことがありました。
中学時代から進路を決めるようになりますが、「~先輩・父親が行ってるから~の高校」という考えで、「目的に合わせて高校」を選ぶということはできなかったでした。
大学も、高校時代の友人が「狙いどころがあるんだけど」と聴いた話を鵜呑みにしたところでした。

大学卒業後

自分がわからず、ハローワークに行ってもやってみたい仕事や仕事をする動機がわからない。ずっと、絶望していました。
生きていても仕方ない、ゲームできればもう十分。
やっと、ハローワークで見つけた仕事は、「初めから正社員なんてなれない」気持ちと、「学君はペラペラしゃべるから営業とかあってそうだよね」と言われていた言葉に従って、ホテル業のパートを選びました。でも、本心は朝晩交代制の仕事で、接客業務はやりたくなかったでした。
大切に扱ってもらいましたが、うつ症状になって、自殺未遂を起こしました。
会社は、退院後クビにしてもらいました。
退院を上司に伝えることをせず、既にクビになってる前提で思い込み、こちらの意味でも職場の方へ迷惑をかけました。
その後、友人の紹介で派遣社員として工場に働けるようになりました。
しかし、我慢だけの生活は問題でした。
仕事に耐えてお金を貰えれば生きていけると思っていた矢先でした。
1本保証金100万の製品を1日で連続10本以上不良にしたり、下水の毒ガス排出の原因を作ったり。
そして、上司から問題を突っ込まれたとき、ただ黙って耐え忍ぶだけの生き方でした。
毎日、不良の恐怖と一日が終わることへの期待だけで過ごしました。

転機

ゲームを遊んでいた時に突然、湯殿山神社へ行きたいと思い、友人と山形県にある出羽三山神社奥の院湯殿山に足を運びました。
その当時は、表情は考えて作り出し、感情はあまりなかったでした。
神社の神域へ足を踏み込み、大滝神社に参拝した瞬間、体の中に透き通った空気が入り込み、全身の淀んだエネルギーが解放されるのを感じました。
そのとき、私の目からは、自然と涙が零れ落ちました。
感情が戻ったのでした。
以降、生活が大きく変わりました。
ゲームを辞めて山形の旅行に出かけて、自然に溢れ出る楽しい気持ちを実感していきました。
楽しい生活は終焉を迎えました。
仕事場の労働時間が長くなり、体調を崩して退職しました。
また、職なしでした。
家族からは、「仕事を見つけること」を問われて、また死にたい・絶望した気持ちになりました。
でも、心の中で死ぬよりも絶望から這いあがろうとする自分に気付き、死に物狂いで心理カウンセリングを受けました。

心理カウンセリング後

紆余曲折を経て自分で仕事を見つけ、正社員になることも出来ました。
本心が徐々に開放されるに従って、心の中からやる気が生まれ、いつの間にか自社以外の社長と仲良くなったり、引き抜きにあったりしました。
会社のためにステージに立って、歌って踊るエンターティナーでもありました。
そして、最も変わったことは、家族。
今では、我が家を大切に守りたい気持ちで溢れています。