プロフィール


はじめまして、プロフィールへ足を運んで頂き、ありがとうございます。
山形県天童市で心理カウンセリングルームを開いている冨樫学と申します。
元いじめられっ子で、会話ができず、引きこもり、自殺未遂、就職難、感情希薄、学業不振、家庭崩壊、アダルトチルドレンを経験してきて乗り越えてきた心理カウンセラーです。
書けば長くなる経歴ですが、順を追ってご紹介いたします。
1986年6月19日、天童病院で夜20時近くに生まれました。
冨樫家の長男かつ一人っ子で、家族に大事に育てられました。
大事に育てられたはずでした。
イジメられ始めていたのは、小学校一年生になってからでした。毎朝、先輩に薔薇の針を目の前に向けられて「ハリー!ハリー!」と脅され、泣きながら登校していました。自分は、何ともない気持ちだったのですが、うつ状態は自然と出始めてきました。2年生になったあたりから、イライラし始めると授業中に鉛筆をかみ砕いたり、休み時間に自分の下敷きを割ったりしていました。そして、壊したことへの罪悪感に泣きながら、心の中で家族へ懺悔していました。友達と遊んだり、虫取りするのが好きな子でしたが、ダンゴ虫、カエル、ミミズを磨り潰して一人遊びしてることが多く、解剖が楽しかったでした。
小学校中学年になり、次第にお風呂に入ることが怖くなりました。一人でお風呂に入り始めの頃でした。ホラー番組に恐怖心を抱いて、お湯を頭から被ると後ろに何か命を奪う幽霊が出てくるような気がして、入浴が怖くなりました。小さいときは発汗性が高いため、すぐに臭くなります。いつの間にか、頭からはツーンとする悪臭が漂うようになりました。頭をかけば、ふけや油の塊が出てきて、喜んで近づいてくる人は少なかったでした。あまりの汚さに、子供会の旅行へ両親といく時に、フケが出ないようにムースで髪の毛を固められました。そのうち、「うぶー!うぶー!」と呼ばれるようになり、「なんでや、なんでうぶって言うのや~」と言って、暴力をふるって喧嘩するようになってました。そして、テレビゲームにハマり始め、学校から帰ってから食事と睡眠のとき以外は、ゲームに時間を使う日々を送り出しました。
運動神経が全くなく、何の取柄もなかった自分でした。
高学年になってから、さすがに100メートル18~20秒台で走っている私に危機感を覚えてか、父親が走る練習を付けてくれて、14秒台のスピードで走れるようになり、学年で2位になりました。初めて、クラスの注目の的になったのでした。
しかし、ある程度人気が出ても、今までの生活スタイルは変わることなく、たとえ、影でモテていたとしても、素直に喜べませんでした。
心の中には、「冨樫家を潰してやる」という気持ちがずっと潜んでいて、「絶対に彼女は作らない!出来たら死んでやる!」と言う思いが渦巻いていました。そういう思いを抱いていたからか、包丁を見れば自分の心臓を刺して自殺するイメージが飛び込んできたり、目の前にいる家庭教師の目にシャープペンシルを突き刺す妄想をしていました。
行動に移しませんでした。
心の中で、ずっと我慢していました。その代わり、自分の身体にシャープペンシルを刺して苛立ちを抑えていました。殺すのであれば、自分と。。。
ある日、別の人がいじめにあっていて、いじめたと思う人は校庭に集まるように言われました。私もその中に混ざりました。何もしていなかったから、いじめている人と同罪だと思ってました。しかし、見ている人は見ているようで、「なんで学がここに混ざっているの?」と不思議に思われていました。私は自分が許せなかったのでした。
わたしへの嫌がらせは、意外な形で幕を降りました。クラスの女子が担任の先生に嫌がっていることを伝えてくれたのでした。助けられました。
中学生活は、嫌がらせはなかったでした。
今思えば恐ろしい話ですが、中学1年2学期のとき、中学の番長をムカつかせる言動をしたことで、番長グループに囲まれ、脅されました。その日は、恐怖で家の中で震えていました。しかし、次の日、何のご無沙汰もなく、学年の不良のトップが顔を見に来ただけでした。
小学校から一緒の友達の姉が、影で「学君は悪い人ではないよ」と助けてくれたことを後にしりました。その甲斐あってか、中学時代は読書していたり、ゲームバカだったので「ゲームと言ったら学」と言われるだけで、人間関係は穏便に、むしろ、学年の通して不良グループからは一目置かれる人になっていました。
学業面では、覚えられないことが悔しくて、頭を辞書で殴っていました。そのまま、首が折れてしまえばいいのにと。その頃、恋愛シミュレーションゲームに興味を持ち、誰とも心を開かない女の子を好みになりました。内心は、隠せなかったのでした。同時に、ハサミで体を切りつけることも始めました。スッと刃物で切られたときに、命が亡くなった気持ちになり、快感でした。
高校時代、入学当初は独特のキャラクターだったので人気者でした。
他のクラスからもユニークな有名人で通っていました。
しかし、人付き合いの仕方をわからなかったので、悪口を言ってからかうことが皆楽しい、誰かと一緒に行動することをバカらしいと思っていました。
人は人。半分子供でも人。
入学2ヶ月で、クラスの人全員から声をかけられることがなくなりました。
同調圧力のようなものが働き、話してくれる人がいても、小声だったり片言でした。
体育の時間は一人が多く、何もできない。
数学や大好きな生物学に集中したいのに、周りが気になって頭に入らない。
マンガやドラマ、ゲームで演出されている薔薇のような高校生活は幻想でした。
旅行先のお土産をクラスの全員にに渡している女子は、「可哀そうだよ」と小声で言っていましたが、それですらも嬉しく思っていたのは、今でも覚えています。
高校2年、クラス替えがありました。
約7年間の歯の矯正の最終段階、顎の整形手術をしました。
遅れて授業に混ざった人、歯に変なものを付けてる人でまかり通り、自分を出さずに相手に合わせるだけの生活を送りました。そして、ずっと引きずっているのは、「冨樫家を崩壊させる」と言う信念と諦めでした。
高校3年時、苛めが起きました。休み時間中、ボールや缶が私の頭に飛んできて、男子の3割が加担していました。1学期から嫌がらせが起き、夏休みの間も苛めのことが頭から離れず、大学受験を控えているのですが、勉強に集中できませんでした。そして、2学期、生活指導の先生に相談し、助けてもらいました。
何とか大学に入学し、臨床心理士になりたい夢があり、臨床心理学と精神医学の世界へ足を運び始めました。脳内物質で人間は操作できると妄信し、心理カウンセリングの1回目の講義の際、「心は全て脳の伝達物質で操作されている」ことを受講生全員の前で発言していました。「心があるから思いやれる」ことを完全にバカにしていました。自主的に勉強していたものの中には、DSMⅣ-TR(精神科診断マニュアル)や社会生物学、認知科学などの勉強範囲外の知識もいれていました。
喋り方は学者っぽく、映画に出てくるマッドサイエンティストを尊敬していました。
好きな勉強ができても、ゲームは止められませんでした。
夏休みの半分以上をアパートで生活しましたが、友達から連絡が来るまで、薄暗い部屋でずっとゲームしていました。学業そっちのけでした。
そして、うつ気味になり精神科へ通うようになりました。
心療内科の担当医は、うつ病と診断しました。
その時から、私はうつ病患者として自分を受け入れるようになりました。
大学生活4年目12月。
富士の樹海へ向かいました。
完璧にできないと何をやってもダメ。失敗は死ぬ以外許されない。
それだけが、目の前にありました。
自殺は未遂で終わりました。
樹海へ導かれているとき、たまたま見えてきた神社に引き寄せられました。
最後の参拝と思い、それぞれの神様に現世への別れを告げ、山を登り、山道へおしっこしました。山を少し登ったところで道のど真ん中で1時間くらい眠りについたあと、頭の中に「ATM」が思い浮かびました。
近くのコンビニでATMで口座に目をやると、お金が振り込まれていました。
家族が振り込んだものと理解し、いつの間にか自殺する気は失せていました。
東北のアパートへ戻ったとき、父親と母親がホッとした面持ちで待っていました。
初めて、家族に向き合った気分でした。
そのとき、父親は長年続けていたスポーツクラブの監督を辞めていました。
かかりつけの心療内科の医者からは「感情がなくなっている」と言われました。
大学卒業後、1ヶ月就職活動でアパート暮らしし、山形に戻りました。
何をしたらいいか全くわからなかっただけでした。
ハローワーク(山形公共職業安定所)を覗いても、興味のある仕事は見つからず、何故金のために生きなければならないのか、絶望していました。
翌年、パートの仕事に就きました。入社2週間でうつ病用に処方されたSSRI(セロトニン再取り込み阻害薬)をオーバードーズし、家族が見つけたときは、泡を吹いていました。
大学病院へ緊急入院しました。
胃の洗浄が終わり、通常病棟に移されました。
精神科医のトップから見てもらったとき、「薬を飲まなくてもいい人だよ」と言われ、投薬は中止になりました。
退院後、かかりつけ医を訪ねたとき、「引き継いだカルテだと薬が必要だとかかれていたけど、おかしいなと思っていたんだよ」という返答がありました。精神医療を疑い、科学への絶対信仰が崩れ去った切っ掛けになり、精神科通いはやめました。
わたしの死にたい気持ちはずっと止まりませんでした。
哲学や心が休まる本を読んでも何も解決せず、アニメ・映画を鑑賞したり、ゲームで遊んだり、友達と買い物に出かけたりしても、最後には現実の空虚感のみが残りました。
そして、仕事は何も見つけられませんでした。
友人の紹介で、工場で働くことができました。
給金も良く、働いた分だけ給料がもらえました。
でも、言われた通り仕事をすることが、、、できませんでした。
教わっていることが途中でホワイトアウトして、ぼーっとし、不良も毎日のように作り、毎日不良に怯えながら仕事していました。
そんな会社員生活をしている内に、会社に1本100万円の保証金を課せられている製品を10本以上不良にしました。
それでも仕事は止めずに働きました。
自分が職場でこけたとき、手を叩いて笑っていました。周りの人は、どう思っていたかはわかりません。
毎日に耐えて、家に帰れば、ゲームと映画で引きこもりで、服装や見た目は、40代のおじさんでした。
あるとき、ゲームをしている最中に湯殿山神社に行きたい衝動に襲い掛かり、その日に友人を引き連れて参拝に行きました。
6月の雪が残っているときでしたが、幻想的な風景で新鮮な気分でした。
大滝神社(瀬織津姫神)を祀る巨大な滝の前でお参りした時、体の中に澄んだ空気が入り込み、涙が零れ落ちました。高校くらいから忘れていた素直な感情が戻った瞬間でした。
それから、狂ったように山形を旅行し始め、山形の妖怪探し、妖怪地図作りをしようと思いました。
会社で少し仲良くなった人からは、「地に足がついていない」と言われました。
一体、何のことなのかわからなかったでした。
数か月後、体調を崩して、仕事を辞めました。
また、自殺願望との日々。
しかし、死ぬにもいつも何者かに邪魔されるばかりで、死ぬことに諦め、生きる道を選びました。
食事療法、運動療法、占い、就職支援センター、思いつく限りの手は尽くしました。病院と関わる機関とは一線を置きたい、薬と無関係なもので自分を良くしたい一心で。
そして、最後に辿り着いたのは、心理カウンセリングでした。
セッションを受け始めた当時は、「あ、あ、あ」と返答すらできないこともあり、ちょっとした受け答えすらも、自分が創造した通りにならないと否定されてしまうと思い込み、恐怖で声が出なることがありました。
カウンセリングでは聴くことが主体でした。
ハローワークで紹介されていた農家のアルバイトが2日でクビになり、そのバイト先で「自分の何が女々しいのか教えて下さい」と土下座したこと。
身だしなみの整え方もわからなかったので、神を洗ってそのままの髪型が良かったので、ドライヤーで乾かさずに面接にも行ったこと。
ゲーマーだったので、自分の持っているレアなゲーム雑誌の自慢も。
全て受け入れて貰いました。
家族や友達には言えない、本当のこと、バカかもしれないことでも。
数々の心理療法を経て、徐々に自分へ気付き始めてきました。
相手が興味のないことを言っていたり、社会常識としておかしいことをやってたり、本当は着たい服装があったり。
ちょっとしたことでも、話していくうちに段々自分を客観視できるようになり、自然と理想の自分に切り替わっていました。
見た目40代の服装が近所の人から「俳優みたいに見えるよ」と言われたり、ゲーム友達しかいなかったのにファッションや食べ歩きの友達ができていたり、内気な社員から会社内での引き抜き・他の会社の社長からの引き抜きの話など、自分では考えられない出来事が起きていました。
セッションへ通っている期間、少しずつ自分を出し始めて理想と自信に目覚めていたとしても、家族関係や社会生活の紆余曲折はありました。
何不自由なく働ける人の中には、心が苦しんでいる人の気持ちを理解できない人がいました。彼らに悩まされ、苦しみました。
自分の力で考えられるようになったのに、仕事を全て奪われ、ロボットのように命令されて動くだけになりかけたときもありました。
その一線を見極めてセッション中に気付かせてくれたのも、心理カウンセリングでした。
思考は戻り、考えられる頭に戻っていました。
私には癖がありました。
ひとつのことを考えれば、一通りしか答えがない、イエス・ノー形式の思考で、人間関係の多様性には気付き難くなる問題でした。
人間関係にはほんの些細なことだとしても、どうして、上司・先輩・同僚達が自分にそういった対応を取ったのか。
その中にも、
「相手はどういう人か」「どういうことを言うと聞き入れてくれるか」「どんな態度に苛立ちを覚えやすいか」
数々の条件があって、1人に対して1つの正解では決めつけられない、臨機応変な対応が必要で、学術的な脳内物質や統計の世界だけでは人の心に通用せず、いつの間にかノウハウで何とかなる世界から離れていました。
大学時代に「心は脳内物質で全て解決できる」と言っていた脳科学信者の私を、コンピュータ脳から解き放ってくれたのが、最も軽視していながら藁をもつかむ思いで辿り着いた心理カウンセリングでした。
時間はかかりますが、脳内伝達物質を調整しなくても自然な思考を得られる自分に切り替わっていました。
人との付き合い方が変わってから、一番変化があったのは家族でした。
自分さえ良ければ・我慢すればいいと思って個人行動していた家族が、団らんを楽しみ、バカな冗談を言い合って笑い合うようになりました。
勿論、自分の心が成長するまでに喧嘩もしましたし、反抗もしました。これも今まで経験できなかった心の発達でした。
今では父の日・母の日・誕生日にみんなで当たり前にお祝いできる日常を送れるようになりました。
そして、「冨樫家を潰す」の気持ちは、「冨樫家を守る」に変化してました。

魔法のような出来事を経験し、多くの方へ人生観が変わるサポートをしたいと思い、恩義ある心理カウンセラーになりました。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。